正月が終わる

正月も3日になると調子が悪くなる。張りつめていた空気が徐々に弛んでくる。あんなにいっぱいだった重箱が入れ歯を外した年寄りの歯茎のように隙間が目立つようになる。9粒になった黒豆、5切れの数の子、虚空を見つめる田作り、澱んだ栗きんとん。「おせちも良いけど、カレーもね」と食材の隙間からの三人の女が誘惑している。カレーに手を出したところで今年一年邪悪な禍がおこるわけがないのだが、なんだか意固地になって食べれない。大晦日の飲み過ぎた身体を癒してくれたお雑煮も味気ないものに感じられ、柚子の皮を浮かべて柑橘の爽やかな香りを楽しむも、味噌の旨味を懐かしく思ってしまう。テレビに映る箱根の風景を眺めながら、「数々のドラマを生んだ、この戸塚中継所では...」と叫ぶ男の声を聞きながら、襷を離した瞬間倒れ込む男達を見ながら、ああ、正月が終わる と暗澹たる気持ちにぼんやり襲われた。

 

 

嬉しいこともある。年末年始の休みに入ると同時に本が気楽に読め、没頭することができた。きっかけは二つあって、まず、時計が好きな知り合いが、年末は置時計を作ると言っていたことが第一の引き金だ。修理を専門にしている人で仕事の話をよく聞くのだが、その度に清潔な机とよく手入れされた道具を手に没頭している後ろ姿を想像していた(実際に見たことはない)

そのお陰で、私が小学生のころ、図書館に開館と同時に入り、気が付くと閉館時間だった時の記憶が蘇った。いつの間にかできなくなっていた。というのも、読書に限らず、何かをする時は必ず自意識過剰になり、全く集中できなくなっていた。取り組むからには、絶対何かを感じ取らなくてはいけないというプレッシャーと、それに取り組むこと自体に自信がなかったりした。読書に関していえば、読後に上手い感想を述べなければとか、その本や作者に対して意見を持たなければいけない等を無意識化に思いながら手にとっていた。意識が高いという見方もあるが、何か読み取るぞと空回りして没頭にはほど遠い状態だし、なにより苦痛だった。しかし知り合いの修理の仕事の話や、置時計を作る話、趣味としての時計の話を聞くたびに、関心があることへの純粋で冷静な好奇心に触れることで、心の忘れていた部分が思い出された。

 

第二は、雑誌にあった多和田葉子氏へのインタビューだ。

 

「そもそも私がものを書くようになった端緒は、子供のころに言葉というものが不思議だと思ったこと。生きているように見えたり、言葉を一つ言っただけで人が動揺したり喜んだりする、その不思議な力に惹かれました」- BRUTUS 930号より

 

私は以前より多和田氏の作品に触れていたが、言葉自体に対して並々ならぬ取り組みを感じていたので、このインタビューはとても興味深かった。私が通っていた大学のゼミで、他の国の言葉で表現するにはまず母国語の力が必要だ、と言われたことがある。多和田氏は独語、英語でも活動している。それぞれの言葉を学んでいる内にやはり日本語の表現も広がっただろう。言葉への好奇心の火が消えずに続いているのは、没頭することのひとつの形のように思えたし、その好奇心がベースとなって今日の作品になっていると思うと、きっかけは一つで良いし、壮大な理由は要らないんだなと勇気づけられた。

(インタビューでは、国、民族、言語等の境界を越えて世界とどう繋がるのかをテーマに掲載されている)

 

知り合いとの会話と多和田葉子氏のインタビューは、嬉しい出会いだった。とても良い時間を過ごすことができた。これが何に繋がるのか分からないが、忘れたり、歪んだりしないようにせねば(変化は可)  正月が終わる。