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 一週間土日に希望を抱いて仕事をしているのだけど、いざ土日になると溜まった感情が爆発してあたふたしていつの間にかこんな時間になっている。自由に使える時間がたくさんあって喜ばしいはずだしやることもたくさんあるのに急に腹立たしくなって床を踏み鳴らし私一人しかいない家で誰にも向けられていない憎悪の言葉を叫んでいる。救われたくて何かをしても手につかず、そもそも好奇心が死にかけているので行為とフィードバックに対して喜びが薄く、手を動かしても同時にやるせなさと虚無感に苛まれ、腹立たしくなり、結局何もかも放置して物に当たることが多くなった。お陰で机の引き出しが大分曲がってきている。物に当たっても何も解決しないということは承知なのだが、もはや何を解決すれば暗澹たる気持ちがなくなるのかが分からず、考えれば考えるほど底へ底へと堕ちていく。我儘と思われるだろうが救ってくれと声を大にして言いたくて、でもそんな迷惑なことを口が裂けても言えるわけがなく、せめて擬似的にでも安心感が欲しくて、仕事が終わればすぐさま酒を飲み、酔ってしまえばいち早く布団に入り人と寄り添う妄想をし、まるで相手がいるかのように「海に行こう」と囁きのような呟きをし、朝目が覚めればパソコンを起動し、せめて笑って忘れたいと仕事の時間までyoutubeで漫才をひたすら流している。

 

 昨日、九州交響楽団定期演奏会に行った。もうしばらく行ってなかった。知っている人に会うのが怖くて、しかもそういうところで会う人は全てを見透かされそうでずっと避けていた。ラインホルト・フリードリッヒというトランペット奏者がソリストとして招かれることを知ったのは一月程前で、何気なく九響のポスターを眺めていた時だった。初めて生で聴いたのは4~5年前に教会で行われた公開レッスンだった。心が奪われるとはこういうことかと実感するほど感動した。私は素晴らしい演奏を聴いた時、心がフッと柔らかい風に運ばれるような気がするのだけれども、それは当時の話で、一度そうした心の動きがただただ辛い時があり好奇心や感動といったものに蓋をした。その結果、不思議と景色が平面に見えて感慨というものが薄くなった。そしてそれは味気なく無味乾燥としていて、身体からどんどん感情が染み出しなくなっていくように感じ次第に恐怖にかわっていった。それらを取り戻すのは難しいだろうなと感じながらも、今日の演奏で心からの感動ができるならばと淡い期待を抱きながら、できるだけ人目につかぬようにと確保した三階の端に席から次々に流れ込む客を眺めていた。

 

 帰り、下品な男2人が「所得税を払ってるんだから生きる権利だってあるんだ」と大声で叫ぶのを聞きながらうどん屋でうどんを啜った。町は酔っ払いで溢れていた。屋台はどこも人でいっぱいだった。コンビニで酒を買い、歩いて帰った。湿り気のある空気が梅雨の到来を予感させる。城跡を過ぎ、公園の林に入ると男女が歩いていた。2人とも酔ったような足取りをしているが、雰囲気は暗く、話し声はあまり聞こえなかった。仲が悪いわけではなく、現状がどうしようもなくなってきていて、それによって愛が揺らいでいるような微妙な雰囲気だった。それをできるだけ遠くから眺めていた。女が男を見るときは男は前を見据え、男が女を見るときは女は下を向き、しかしもし目が合うとどうすればいいのか分からなくなる、そんないじらしいすれ違いを繰り返してた。街灯によって時々照らされるお互いの横顔が美しかった。2人を眺めながら林静一の「赤色エレジー」を思い返していた。一郎と幸子のどうすることもできない関係。明るくない将来を薄々感じながらものめり込んでいく2人。あの切なさとやり場のなさは辛いこととは分かっていても羨ましく思う。