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5月9日はアイスクリームの日らしく、サーティーワンアイスクリームが安売りをしていた。普段サーティーワンなんか買わずに森永のビスケットアイス(80円ぐらい)を食べるのだが、せっかく安いし食べるなら友達と食べたいと思って買いに行った。私は1人が好きではあるが誰かと食べたりお茶をしたりするのが元々好きだ。特に友人は雰囲気や声に不自然さがないので落ち着いて話すことができる。不自然さ(私が勝手に思い込んでいるだけなのだろうが)があるとそこばかり気になって緊張してしまう。人から見ると恐らく私は不自然の塊だと思うのだが、だからこそ自然で伸びやかな人に憧れをもってしまうのかもしれない。

アイスを食べ各々だらだらとしてたのだが、友人の部屋の居心地がとても良く感動しつつ、自分の部屋を思い返して情けなくなると同時に、自分の過ごす部屋なのだから自分の居心地の良いようにするのが正しい姿勢だと感じ、それから毎日「居心地の良い部屋」という抽象的で曖昧な理想を生み出そうと苦心しているところである。この試みのお陰で大量のモノを捨てることが出来た。中学・高校時代の手紙やプリクラ、証明写真、受験票、色紙など、過去がたくさん引き出しからでてきて、それぞれを恐る恐る覗き込み、実際にこれを渡してくれた人がいて受け取った私がいたことが感慨深く、過去のこうした手紙やそれに付随して起きていた物事が私の人格を作り上げているものの一つであるとは理解しつつも、それらの思い出には他人の出来事を映像で見ているような現実感の無さを感じてしまう。しかし良くも悪くも当時の感情の動きは生々しく思い出すことはでき、一つ思い出すと芋づる式にどんどん思い出が感情と共に溢れてくる。現実の引き出しを開けるごとに頭の引き出しも開けられていく。大量の手紙や色紙を読むと、過去に出会った人が、今の私に話しかけてきた。窓から夕日が差しこむ日曜の学校の廊下の切なさが、夏の教室の窓から運動部をボーッと眺めた時の気怠い雰囲気が、部活の疲労感と共に思い出される。今の私が当時の学校の制服を着ていて、送り主は当時の姿のままで私に話しかけている。不思議で心地良いのだが、過去は絶対に二度と過ごすことのできないという事実が招く哀愁と愛おしさが身に沁みる。私は不義理をし過ぎた。