工事とかくれんぼ

マンションの外壁の大改修が始まって3か月が経った。管理会社からの通達の後、あっという間に足場が組まれ、建物全体に粗い幕がかかり、窓からの風景がすべて灰色になった。どのような作業をしているのか全く分からないが、ベッドが窓際にあるため、休日に寝ていると、まるで自分も作業をしているかのような気持ちになるほど音が聞こえる。「お前のやり方だと仕上げの時に二度手間になるんだよ。ここは下からやっていかないと」という指導が聞こえてきた時は、職場の上司の顔と声で頭の中で再生してしまい、鳩尾がギュッとなった。頭まで布団をすっぽり被って、無理やり二度寝をしようとする。作業員が足場をバタバタ移動するため、普段は聞こえないはずの音が四方から聞こえてきて、目をつぶっていると自分がどこにいるのか分からなくなる。ふと、ガラス1枚とカーテン1枚隔てた先に人がおり、私は息を潜めている状況が、まるでかくれんぼで鬼が近くにいる時のようだと思った。子供のころ「バ~リア!」と宣言するだけで無敵になっていたことを思い出し、小さい声で「バ~リア」と唱えると、急に安心してきて、頭がゆっくりと枕に溶けていった。

 

 

 

 

 

正月が終わる

正月も3日になると調子が悪くなる。張りつめていた空気が徐々に弛んでくる。あんなにいっぱいだった重箱が入れ歯を外した年寄りの歯茎のように隙間が目立つようになる。9粒になった黒豆、5切れの数の子、虚空を見つめる田作り、澱んだ栗きんとん。「おせちも良いけど、カレーもね」と食材の隙間からの三人の女が誘惑している。カレーに手を出したところで今年一年邪悪な禍がおこるわけがないのだが、なんだか意固地になって食べれない。大晦日の飲み過ぎた身体を癒してくれたお雑煮も味気ないものに感じられ、柚子の皮を浮かべて柑橘の爽やかな香りを楽しむも、味噌の旨味を懐かしく思ってしまう。テレビに映る箱根の風景を眺めながら、「数々のドラマを生んだ、この戸塚中継所では...」と叫ぶ男の声を聞きながら、襷を離した瞬間倒れ込む男達を見ながら、ああ、正月が終わる と暗澹たる気持ちにぼんやり襲われた。

 

 

嬉しいこともある。年末年始の休みに入ると同時に本が気楽に読め、没頭することができた。きっかけは二つあって、まず、時計が好きな知り合いが、年末は置時計を作ると言っていたことが第一の引き金だ。修理を専門にしている人で仕事の話をよく聞くのだが、その度に清潔な机とよく手入れされた道具を手に没頭している後ろ姿を想像していた(実際に見たことはない)

そのお陰で、私が小学生のころ、図書館に開館と同時に入り、気が付くと閉館時間だった時の記憶が蘇った。いつの間にかできなくなっていた。というのも、読書に限らず、何かをする時は必ず自意識過剰になり、全く集中できなくなっていた。取り組むからには、絶対何かを感じ取らなくてはいけないというプレッシャーと、それに取り組むこと自体に自信がなかったりした。読書に関していえば、読後に上手い感想を述べなければとか、その本や作者に対して意見を持たなければいけない等を無意識化に思いながら手にとっていた。意識が高いという見方もあるが、何か読み取るぞと空回りして没頭にはほど遠い状態だし、なにより苦痛だった。しかし知り合いの修理の仕事の話や、置時計を作る話、趣味としての時計の話を聞くたびに、関心があることへの純粋で冷静な好奇心に触れることで、心の忘れていた部分が思い出された。

 

第二は、雑誌にあった多和田葉子氏へのインタビューだ。

 

「そもそも私がものを書くようになった端緒は、子供のころに言葉というものが不思議だと思ったこと。生きているように見えたり、言葉を一つ言っただけで人が動揺したり喜んだりする、その不思議な力に惹かれました」- BRUTUS 930号より

 

私は以前より多和田氏の作品に触れていたが、言葉自体に対して並々ならぬ取り組みを感じていたので、このインタビューはとても興味深かった。私が通っていた大学のゼミで、他の国の言葉で表現するにはまず母国語の力が必要だ、と言われたことがある。多和田氏は独語、英語でも活動している。それぞれの言葉を学んでいる内にやはり日本語の表現も広がっただろう。言葉への好奇心の火が消えずに続いているのは、没頭することのひとつの形のように思えたし、その好奇心がベースとなって今日の作品になっていると思うと、きっかけは一つで良いし、壮大な理由は要らないんだなと勇気づけられた。

(インタビューでは、国、民族、言語等の境界を越えて世界とどう繋がるのかをテーマに掲載されている)

 

知り合いとの会話と多和田葉子氏のインタビューは、嬉しい出会いだった。とても良い時間を過ごすことができた。これが何に繋がるのか分からないが、忘れたり、歪んだりしないようにせねば(変化は可)  正月が終わる。

 

恐怖の報酬

フリードキン監督の「恐怖の報酬」がとても良かった。時間を忘れて食い入るように観た。「良い映画」の定義は分からないが、良いと思った映画は大抵エキストラを含めた役者の表情が素晴らしいと思う。フェリーニ「8 1/2」、ロッセリーニ無防備都市」、ペキンパー「戦争のはらわた」、タルコフスキー「ストーカー」そしてフリードキン「恐怖の報酬」...どれも人を驚異的な表情を出す役者が揃っている。エキストラもどこから見つけてきたんだという人が一瞬映ったりするから油断できない。「恐怖の報酬」では主演の4人の表情はもちろん素晴らしく、特に殺し屋のニーロ(フランシスコ・ラバル)が嵐の中トラックでぼろぼろの橋を渡る為に先導し、渡り切った後の疲労と恐怖の表情(それまでクールに演じていたからなおさら)は印象深かった。ここまで顔が変わるのかというぐらい引き攣っていた。町でパイプを吸う老人の皺の複雑さ、カフェの女の影のある表情...一人一人の半生で映画が作れそうな表情を浮かべていた。

 

「恐怖の報酬」は音楽も良かった。耳に残る効果的な音楽の選び方だった。不安をあおるTangerine Dream電子音楽によるテーマとKieth Jarrettのオルガン。仲間を失いつつ、全てを終わらせた主人公の一人ドミンゲス(ロイ・シャイダー)がカフェの女と静かに踊る時に流れるCharlie Parkerの甘いサックス。

ゴダールの「気狂いピエロ」のように音楽を効果的に配置・切断することで生む異化効果も素晴らしいが、ものをきちっとした枠に収めるように場面と音楽を一致させていてる映画は心地が良い。映画作りがどのようにしているのか知らないが、制作陣が音楽のもたらす効果を理解し、ちゃんと聴いて選んでいるのだなと思った。

映像の迫力は言わずもがな、手に汗握る場面がとても多かった。CGを使わず(そもそもCGがない)撮影していたのが信じられないと思った。いつトラックが河や道から落ちるのか、ニトログリセリンが爆発するのか、ハラハラしていた。主役同士がぶつかり合うのかなと思っていたが、苦悶の表情を浮かべながらも淡々とセリフ少なく進行しており意外にも感じたが、あれだけハラハラする場面があって人間のぶつかり合いも多発してたらキャパオーバーで胃もたれするに違いない。主役の4人は色々あって南米のポルベニールに流れ着くのだが、オムニバス形式で4人の生き様を映し出し、どうして国籍も元の職業も違う人物が揃っているのかというのを手短に分かりやすく映していた(個人的な好みだが脈絡のなさそうに見える場面が最終的に一つに収束するのが大好き)

背景の濃い登場人物が多いのに中だるみすることなく上映時間は121分とまとまっており、全体の印象としては、「精巧なバランスで作られた狂った映画」であり最高の作品だった。



 

 

 

最近 文章暗いけど、割と明るい。

 台風が久しぶりに直撃している。風と雨が窓を叩く。台風にばれぬようそっと窓を少し開け、外を覗き見する。隣の家のアンテナは揺れていない。風は思ったより低いのだなと心に思い、またそっと窓を閉める。昼寝のせいで眠気はあるのに眠れない。微量の頭痛にイラつきながら、三連休の貴重な真ん中の夜を自室で過ごす。休日に家でゆっくりするのは久しぶりだ。最近は夜になると居酒屋に行き、ビールとつまみで本を読んでいた。酔っ払いだらけの居酒屋は好きだ。頭上を無数の明るい声が交差する。だらけた熱気と匂いと音の中、頭を垂れて本を読むとそれらに包まれているようなやすらぎを感じる。

 

 仕事が増えて帰りが遅くなればなるほど、毛を剃るようになった。首から下、腋毛と陰毛は整え、あとは全て剃った。剃れども剃れども翌日には芽を出す毛を見て、このやろうと思いつつ、身体は健気だなと少し愛おしくなった。家族が寝静まった金曜日の夜に、自分のだらけた裸体を鏡に隅々まで映して眺める。こんなところにホクロがあるのかとか、ケツが思ったより汚いなと発見を楽しんだ。それで体を少し綺麗にしようと、サプリやら化粧水やら乳液やら買い漁って、自室でできる筋トレをして、自分の身体をいたわっている。自分の肌や毛、身に着けるものに興味がなかったし、こだわりがある人がいても感心はすれど共感は抱かなかった。今なら少し共感できる。気にし出した今、どんどん深みに嵌る予感がしてる。

 

 今までの好奇心が下火になった。演奏と異性。今までずっと中心にあった二つが鳩尾から下・恥骨より上の内臓の隙間に降りて行った。興味をなくしたわけではなく、穏やかになった。ある人の演奏を聴いた帰り、ビールを飲みながら歩いた。私はそんなに気張らなくていいじゃないかと急に感じた。柔らかい夜だった。ぐっと重心が下がって足の歩みが変わった気がした。寂しさは今まで通り感じてるし、恋人もほしい。もっと演奏上手くなりたい。それらの気持ちも含め、ガラスケースに収めて心の中心から外してる。人は誰も私を深くは求めていない。気持ちを急いて練習しても疲れてしまう。夢十夜の第一夜で、女の墓を百年眺めるような質感で、ガラスケースを眺めている。いつか露に濡れた真白な百合が咲くかもしれないと思いながら。