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21

ブログに仕事のことはあんまり書かないでおこうと思っていたのだが、一日の重要な時間を費やしていることなのでやはり考えることはあるし、もっとも今日の出勤途中にむくりと疑問が湧き上がったのである。

           

             「なんでこんなに疲れるの」

 

仕事してんだから疲れるだろバカかお前はと思われるだろうが、私は非正規であるが故に(正社員と比較して)プレッシャーのかかる仕事はしていないし何より定時退社である。18時には会社を出て家路につくのである。にもかかわらず、ええここまでぐったりしちゃうの?と自分でも驚くほど疲れている。具体的には自室の椅子に腰かけたら一瞬で1時間経過したりしており、その間何をしてたかと聞かれても虚空を見つめていたとしか答えられない。虚空を見つめて椅子に腰かけ1時間も経過するなんてわびしすぎるし、このままどんどん歳を重ねると思うとみぞおちがグッと縮み上がるので、仕事をしながら自分は何を考えているのか観察をしてみたのである。その結果、ほとんど無駄な気苦労に意識が支配されていることが分かった。3回ほど確認してカバンに入れたにも関わらず、もしかしたら無くなっているかもしれないという不安に襲われてまたカバンから出し確認し、移動中もちらちらとカバンの中を覗いてみたり、席に人が近づくだけで話しかけられるかもしれないと緊張が強くなったり、デスクで作業をするだけでその行動ひとつひとつがどう思われているかの妄想を(全てマイナスな方で)している。

これらの不安はほぼ的外れなものであり、今まで不安が実現したことがない。勿論他人にどう思われているかは分からないが人は他人にそんなに興味はないだろうとも思っている。不安はそんなに実現しないと分かっているにも関わらず負の感情に支配されてしまうのは私が完璧主義の気があるからだと思う。もっとスマートに仕事をしたいとか人に見られて恥ずかしくないようにしたい等の想いがとても強いし、要領が悪く頭も悪いことを隠したい。それらは結果として失敗したくないという想いになっている。失敗はとても怖い。小学校のころ、先生が授業中に「わかった人から手をあげていって」と言って分かる子と分からない子を可視化させていたのだが私は授業が全く分からない子だったので最後まで手のあがらないことが恥ずかしくて苦しかった。高校に入ってからは何をしても分からないと完全に諦めて赤点を取りまっくていたが見た目が頭良さそうに見えるガキだったのでええ、頭悪いんだという反応がまた苦しかった。

まあ、勉強してないから自業自得だよね。別に失敗してもいいやという気概が大事であると思うのだがそれは中々難しくて、失敗した結果を想像するだけで泣きそうになる時もある。社員と話す必要がある時に話した結果、どう思われるかを考えてしまう気苦労もしんどいものがある。これを聞いたらまた「は?」と言われるかもしれないとか、逆に指示を受けた時や雑談として話しかけられた時にうまく返せないとそれでかなり落ち込んでそれを引き摺ってしまう。

 

このような無駄な気苦労を仕事中の8割の時間、何かしらの形で考えてることが分かった。負の妄想をしている時は心ここに非ず状態だったので、ああ、こういうことかと客観的に感じることができたことは大きい気がする。やはり体力的には疲れてなくても緊張と不安が長時間続くとやはりぐったりしてしまう。全く仕事と関係のない人が言うには、私は何をするにも畏まって身構えて、力が入り過ぎているらしい。力が抜ければ生きやすくなるかは分からないが、力の入り過ぎはよくないことは分かる。当面の仕事での目標は適当になることと金を貯めることに決めた。

 

 

20

加速度的に物事が進んでいて私はその中でボーッと過ごしているように見えて地団駄を踏んでいて、それは思春期の学生のような悩みを原因とするものでどうすればいいのか分からず日を追うごとに混乱を深めている。だいたい私のような悩みをいい歳して抱えている奴はロクな人生にならないといのは知っている。山月記の李徴子は秀才であり才能があったのに哀れな虎に変わってしまったのは強大な自意識が原因だ。現代社会、自意識を上手く飼いならさなくては虎よりも惨めな結果になるだろう。神曲の第二歌に

「いま願ったばかりのことをもうやめて別の考えに移り、はじめの一念はすっかり捨てた、そうした人のように」という記載があって、うわあこれは私ではないかと暗い気持ちになってしまった。暗い気持ちは全部の精神を持っていくのでほんとうに健康に悪い。どうでもいいかもしれないけど李徴子はまだ虎だから良いよね。しかも人の頃の記憶が消えてしまうのだし。人のままそれこそ文革みたいに三角帽子にプラカード下げて椅子に立たされるとかだったら虎より絶対しんどいと思う。

自分には好きなものも好きな人もいないし本質的に何も信じてなくて特になにも感動もなく一般的にそうなっているから今こうして社会にいる状態であるというのが辛くて、なぜ辛いかと言うと今まで好きだったものや人や事象は全部ウソでそうなると短いながらも生きてきたことが全部否定されて私はいったいなんですかなるからです。そういう考えは贅沢みたいなことを普通に言われるのがまた辛い。最近何も良いことないですね。良いことを期待するからいけないんですかね。パソコンに珈琲ぶちまけたけどいくつかのキー以外全部何事もないように動きだしたぐらいですかね。良いこと。珈琲も衝動的にコップ投げたからぶちまけたんだけどね。

 

「人は真実を、ちょうどいい温度で保存し平均的なまなざしでとらえ、平均的な言葉で描写しなければならない。そうすれば、いつもながらの事物と言葉、感情と言葉、行いと言葉との安っぽい一致が生まれてくるのだ」

インゲボルク・バッハマンの短編の一節だけど今読む時だなと思った。新聞の書評を壁に貼ってからもう長い。

 

 

 

19

 晴れ。雲がない。

 暖かくなって夕方から夜の間がとても心地よい。時間がのんびり過ぎていく。昨夜は天気は良かったのだが風が強かった。薄暮の中洗濯物を取り込んでいる時、風が少し冷たく秋から冬になる時のような季節の厳しさの予感があった。秋から冬になる時の風のツンとした匂いは小学生の頃によく感じていた。秋も中ごろからはもう陽が落ちるのが早く、18時には暗くなってしまう。暗い中を遊ぶのは小学生の私にとって大人になったような錯覚があったし、なにより、地べたに座り込んでダラダラ話す無為な時間が好きだった。暗いからか普段話せないような日常のささやかな想いや不安を告白し合った。その時間になると何故かみんな普段より優しくなるような気がした。隣の中学校が18時ぐらいになると海援隊の「贈る言葉」を校内に流していたので、贈る言葉を聞くと今でも小学生の頃の記憶が秋風のツンとする匂いと共に思い出す。暗い中学校から武田鉄矢の声が反響していたのは今考えると不気味ではあるが、思い出深いの曲である。

 

 

18

 晴れ。雨も降った。

 病院に行った帰り、雷を伴う雨が突然やってきた。病院で100均の小さい傘(普通に差すと肩がはみ出る)を貰い身体を小さく縮ませて地下鉄の駅に向かっていた。病院から駅までは両側に家が立ち並び、歩道のない少し広めの道路が続いているのだが、土曜の昼過ぎだから遊んでいたのだろうか、多くの子供が家々の軒下に集まり、突然の雨をやり過ごす光景がぽつぽつと続いていた。

古い寺社町だからか、少し歩けば住宅街の中にも祠を見つけることができる。子供が続く道の先にも古い祠があった。簡素な造りだが歴史は古く江戸初期までさかのぼる。ある豪商の中国への武器の密貿易が発覚し本人は勿論その家族も連座として処刑され、その中には幼い子供もいたため町人が憐れんで祠を建てて祀ったとされている。この豪商は西国でも名の通る商人であり当時の藩主と非常に密接な仲であったにも関わらず何故か資料が乏しく、妻と子供は処刑されずに「奴」として命は助けられたのではという説もある。この商人家族の悲劇は、後に近松門左衛門浄瑠璃の題材に取り上げている。

どうもこの地域は悲惨な史跡が多い気がしている。祠から少し歩いた先、さらに時代を遡るが8世紀前半、京都から国司として赴任した家族がいた。妻が赴任先で死んだため地元の娘を後妻として迎え2人の間に一人の子供が生まれた。妻は次第に夫と前妻との間にいた義理の娘が疎ましくなり、ある漁師に「衣を盗むので困っている」と夫である国司に訴えさせた。激怒した夫が娘を探すと丁度濡れ衣を羽織って寝ている娘を発見したためその場で切り捨てたそうな。後に死んだ娘が枕元に立ち無罪を訴えたため、供養の為に石碑を建立し今でもそれは残っている。「濡れ衣」の語源にもなった話である。

そのまた少し先に歩くと細い路地に地蔵が複数納めている祠がある。その昔、そこに住む人々は掘れば出てくる一抱えほどの丸い石を漬物石として重宝した。しかし、漬物石を使った家に祟りや不幸が相次いだ為調べると、もともと一帯を治める藩の処刑場であり、丸い石は罪人の首を乗せておくための石であったらしい。そこで地域で祠と地蔵を建立し、大量の丸い石は祠の下に埋めたり地蔵の側に置いたりと祀るようになった。

 

 話が飛ぶが、私の父の生まれた土地は歴史が長く、三方を山、一方を海に囲まれた閉鎖的な土地であり、外部からの人間に簡単に土地の実情や内面を悟られないようにしてきたのだろうか妙にぼやけた空気である。父の家は複雑な地形の町にあるのだが、細い路地を進むと家はあるのに人はおらず物音もせず、山肌に沿って建設をしているので奇妙は形の家が多く、全く不気味であった。曲がりくねった道は先が見えず、曲がった先に突然荒れ果てた祠や地蔵や古い時代の墓があったり、鬱蒼とした雑木林を進むと突然視界がひらけコンクリート製の小規模なギリシアの舞台のようなものがあって、調べると高射砲の跡であった。

 

 中上健次の取り上げる路地もガルシア・マルケスの取り上げる町や王国もぼやけていて蜃気楼のように感じてどんどん引き込まれていく印象がある。ブログで以前泉鏡花の龍潭談を引用したが、様々な些細な要素が重なった結果幻燈のような風景ができあがっていき、見ているものは飲み込まれてしまう。特に父の生まれた町の路地を歩いた時、何かに引き込まれる感覚が強く、薄い膜を一枚通して見ているような錯覚を覚えた。ぼやけた空気をはっきり見ようとする欲求は強い好奇心を呼び起こす。私の住む土地も父の生まれた土地も曰く付きの土地と言ってしまうとまあそうなのだが、どこかぼやけていて輪郭が掴めない。しかし曰くが土地を知るヒントとなって、知ろうとすることで愛着が生まれる。永遠に求めることができる土地は魅力的だ。思索を尽くしても望郷は抱き続けるだろうなと思う。

17

 晴れ。布団を干したので今日はやり切った感じがする。

 

 仕事を終えて飯を食べ、少し間を置いて21時ぐらいに布団に入る。風呂に入らぬ不快感から眠りが浅く3時ごろに目が覚める。それから風呂に入るのだけど、人の声や車の音などの生活音がほとんど聞こえないしっとりした空気の中、湯に浸かるのがとても気持ちが良い。時間が止まっているのではと錯覚する。湯を混ぜると丸く柔らかい音が鼓膜に響いてくすぐったい。風呂からあがりブログを更新したのだが、やはり眠気が来たので2時間ほど寝た。寝起きは最悪で明らかに寝不足の嫌な身体のこわばりと不整脈がでた。不整脈はほんとに嫌なやつだ。異常な鼓動によって全ての行動がワンテンポ遅れてしまう。一度、24時間以上不整脈が止まなくて病院に行ったのだが、脈が飛ぶたびに呼吸が詰まるのでどうしてもうまく動くことができなかった。

早く寝て早く起きるのは結構理想なのだけど中々うまくいかない。寝れないし起きれないので結局布団でだらだらしていつも間にか寝ていて7時に目覚めるみたいな、時間を無駄にしながら健康的な生活スタイルを手に入れてしまう。

リズムは大事だと思う。グレン・グールドは「パルスの継続性」なるものを唱えていたらしい(ネットではよく見るけど出典がよくわからん)がグールドの演奏を聴くと一定のリズムの継続が構造物の堅牢な骨組みのように感じられてとても良い。小説で文章の下にグールドの「パルスの継続性」のようなものがあるのかなと考えた時、横光利一は結構それなのではと思った。横光利一に明るい読者じゃないし最後に読んだのかなり前なので、そんな感じだったようなとしか書けないのだけど。登場人物の物語の世界とは別にただただ進んでいくだけの時間軸が存在していたような印象。読み直す。

 

 春だから浮かれている。外にいるだけでにやついてしまう。いかんいかんと顔を引き締めるもすぐにだらんとする。涎を垂らし、目じりは下がり、全身に力が入らず、綺麗な女性や無邪気な子供を見るとよたよたと近づこうとしてはっと気が付きいかんいかんと顔を引き締めるもすぐに...

 

 

16

 晴れ。快晴。気温も丁度良い。春になると気分がだいぶ良くなる。気候は健康に大事だということがよく分かる。

 先日、誕生日だった。毎年のことだが、誕生日が近づくと憂鬱になるのに当日になると特別なことがないかなと期待をしてしまう。

おお、私がバス停に着くと同時に目的のバスが来たぞ、やはり誕生日だからか。むむ、良い天気だ。誕生日だからだな。あれ、今日は仕事が楽だぞ、誕生日だからか。やや、書類やカレンダーの日付が全て誕生日だぞ、そうか今日は誕生日か...等々、アホみたいに脳内が浮かれていた。ただ、お祝いされるのに慣れてないので家族がケーキを囲んで蝋燭を消すみたいなのは恥ずかしくて苦手だ。さらっと流してくれるぐらいが丁度良い。

 節目はよく町を歩く。大晦日も歩くし、誕生日も歩く。風景をじっくり観察し、空気をいっぱい吸い、少しセンチな気分に浸る嫌な野郎だ。今年は桜を眺めながら鯉やフナの死骸を4匹ほど見つけた。つい最近焼死体が見つかった公園では子供が元気に遊んでいた。大勢の人がいる前でフェラチオを自撮りしていたカップルがいた場所は工事中だった。何も変わらないように見えて少しずつ変わっている。変化に気が付くほうが良いのかどうかは分からないが周りはどんどん変わっていくのに自分は何も変わらず取り残されるのは寂しいなと思う。反面、何も変わりたくないなとも思う。

 

 

15

 よく分からん天気。雨降ってた気がする。

 仕事中の気分とか仕事中に何を思ったとか全く覚えていない。平常心を保つというのが重要なミッションなので、事象に関して深く考えないようにしている。ずっと緊張状態なので、考えてしまうと身動きがとれなくなる。身動きがとれないとは、1つの行動を起こす度にどう思われているかを気にしてしまって正常な判断ができなくなる状態のことだ。今日は最低限の話だけをするように心がけたし、仕事も1つ1つ自分のペースでやった。行動をいつもよりゆっくりした。それだけでも少しは気楽になる気がする。

 

 興味が自分に向きすぎていると言われた。確かにブログでもツイッターでも自分のことしか書いてない。自分の気持ちは自分しか知りえないので正解不正解が発生しないが、他人や物は正解不正解が発生するが故に怖い。あと物の輪郭を文章でなぞるのが異常に苦しい。脳が別のところに移動していくような奇妙な感覚に陥る。あれは何なんだ。文章の話とは別だが、私が他人が求めているであろうことに関して鈍いのは前から指摘されていた。人を巻き込んだ行動も、自分が救われたいという想いから起こされるものがほとんどだ。私は、自分が他人の為に何かをして喜ばれるとはとても思えないという卑屈な発想を抱いており、また「他人の為に」という発想自体が他人を見下しているのではと感じてしまうのと、恐らく喜んでくれるかもしれないけど実は迷惑なのではと考え込んでしまうところがとても苦しくて、行動する前に挫折してしまう。うううう。

 

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 自分が必要とした言葉を他人も必要としていると根拠もなく信じること。それ以外に私は他人との関係をもう想像することもできないぐらい友達がいない。映画監督ロベール・ブレッソンは「観客は自分が何を欲しているのかを知らない。君の意志を、君の快楽を、彼らに押し付けてやれ」と自分への励ましに書くことができたが……

 

MELOPHOBIA あとがき 安川奈緒 思潮社

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好きな文章だ。「根拠なく信じること」「自分が必要とした言葉」「意志」

困った困った。